なんだかもやもやする話が多いので書きなぐる。
京都造形芸術大がセクハラで提訴された件。京都造形芸術大のコメントが出てから考えようと思ってたけど、今のところ出そうな雰囲気ではないので。
どう考えても大学の対応が悪すぎる。会田誠さんという名前がわかりやすすぎるからシンボルみたいになってるけど、そもそもこれは「大学」という場の芸術の学びの話だということ。会田誠さんは森美術館での個展への抗議文問題で話題になったり、鷹野隆大さんは愛知県美術館での作品への腰巻で話題になったこともあり、むしろこの二人をヌードに関する芸術の公開講座の講師に呼んだというのはものすごく興味深く、面白いブッキングだと思う。
学びとして得難いのは、「誰かの批評話」ではなく作った本人による経験や考察の話だというのはどう考えたって明らかじゃないだろうか。
訴えた方が、講師のことを知らなかったというのは仕方ないとしても、そこから学べるものがあると考えられなかったのは残念だ。
大学の対応が悪いと思うのは、一般への公開講座とはいえ高等教育の場として、彼女にしっかりとこれは学びなのだと伝えなかったこと。実際彼女が怒っているのは「セクハラを認めながら出入り禁止にされる」対応をとられたということに対してのようだ。この対応は大学側が彼女を「面倒な人」だと思ったんじゃないかって邪推してしまう。少なくとも講師や講座の企画をした人(鈴木芳雄さんのよう。該当ツイートリンク)に相談をせずにセクハラだと認めたならそれは間違いだと思うし、芸術の学びということを真摯に考えるのであれば現代アートの中のヌードというものの教育をどう彼女に伝えるかということをもっと考えても良かったんじゃないかな。
会田誠さんがTwitterでつぶやいていたこの件に関してスレッドになっているのでリンクしておきます。
私は男女差異なく学べるべきだと思っているし、アート無罪とも思わない。あちこち引っ張り出すとややこしくなるかもしれないけど、荒木経惟さんが去年、長年の”ミューズ”だったKaoRi.さんのnoteで告発された件などは、誰かの尊厳を傷つけて撮ってきたものは評価できないと思うし、写真界の慣例的にそういったことがもしおこなわれているなら、改善されるべきだ。
そして、同時にこれは男女関係なく私も写真を撮る人間なので、気をつけなければいけないこととも思っている。自分の表現のために、誰かを傷つけたり、ないがしろにしたりしないということ。
でも、京都造形大の件はちょっと違うよね?
もしこれが個人に対して立場を利用したセクハラならば糾弾されてしかるべきだと思う。だけどこうした講義の中で自分の作品について話すことがNGとなったら、今後日本の芸術大学でどれだけの学びが奪われることか考えて欲しい。
平等さは心から求めているし、ハラスメントは許されるべきことじゃない。けど、ラインの引き方を間違えちゃいけない。
というわけで、もう一つのもやもやは、ピエール瀧さんのこと。薬物を使っていて逮捕されたというのは残念なことだ。然るべき裁きを受けることになるんだろうし、治療もちゃんと受けて欲しいと思う。
でもそれにしては、CDの全回収とか配信中止とか放送中止とか、石野卓球さんのライブ出演まで中止とか、過剰すぎない?
そうやって「損害何億円」ってまた騒いで。どんなマッチポンプなのか。
明確な被害者のいない話でそこまでする必要はないんじゃないかな。裁くのは司法であるべきで、正義の棒を振りかざして叩いて、それってただの私刑だし、何も生まないどころか誰かをただ追い詰めていってるだけに見える。もしくは誰か、ではなく、実は自分たちを追い詰めている。
こういうこと普段はあまり書かないんだけど、今思ってることを書いておかないと、本当に本を燃やす時代が来そうだ、と感じて。
興味深い文章ですが、私の考えはちょっと違います。
私は主に古典美術と伝統絵画、版画を学んでいたのですが、日本の美術界はこの美術のカテゴリーのバウンダリー(境界線)が非常に曖昧だと思います。
私は会田さんの絵画での女性の扱われかたよりも、趣旨の分かりづらさの方が気になっています。氏は有名なので現代美術の入り口のように考えられていますが、本当はもっとセンシティブな扱われ方をすべきもののように思っています。作品自体が非難の矢面に立つべきものではないですが、一般公開される講義として適切に選ばれていたかは大いに疑問です。また作品の内容だけでなく、モデルを対象にマスターベーションしたと話したことも批判の対象になったようです。
正しいコンテクストでイベントや展覧会を丁寧に企画する事、批判に過剰反応しない事は重要だと思います。作品に対しての批評や、作家に対する非難はイギリスでもよくある事ですが、撚書になるどころか、アートはますます隆盛しています。
私個人の考えですが、きちんと境界線を引く、というのは汚いものを見ずに済む方法ではなく、正しく作品のコンセプトを理解するために非常に重要な事だと思っています。その辺りが丁寧になされていたのか、キュレーションや企画、クレーム対応が適切だったかは、大いに議論されるべきだと思います。
英子さん、コメントありがとう!会田誠さんは、私から見ると説明責任をきちんと果たそうとしている作家さんだと思っています。モデルを対象に、の件も少なくとも彼はこういう意図で話したということをTwitterでですが説明されています。
一般公開される講義として適切ではないとは私は思わないですが、同時にこういったことが起こった時に「会田さんを知らないなんて」的反応は違うのではないかなと思っています。なので講義に関してもう少し丁寧な説明はあった方が良かったのではと思いました。
ピエール瀧さんのこともなのですが、日本の場合は、事なかれ主義からくる過剰な自粛に走ることが多いように感じています。
なので、そういった意味では本を燃やすという能動よりも、言語統制ではなく謎の自主規制により気がついたら本の種類が減っていくよ、って感じですね。澄んだ水に魚は住めるのか。
額賀さん
お返事ありがとうございます。私は会田さんの作品は現代美術のカテゴリーでの講義で扱われるべきではないかと思います。大学の講義に関する要項を見る限り、もっとコンベンショナルな美術における裸体の扱われ方に関する講義のように誤解されても仕方ないと思います。広く参加者を募りたかったのでしょうが、Figurtive とコンテンポラリー、コンセプチュアルは正確には別カテゴリーだと思います。
基本的には受講者と大学の間の行き違いだと思うのですが、あまりにも受講者への非難が多いのが気になりました。もちろんややセンシティブ過ぎるのでは、とは多くの人が思う事ではありますが。一番肝心なのは大学の対応だと思います。
あと、会田さんに関しては、逆に自分に責任がない事に関して無駄な説明をしてしまっている気がします。これは誠実な態度というよりは火に油を注ぎ、受講者への批判が高まる不要な行動だと思いました。責任感からきている行為だというのは分かりますが。笑 逆に黙っていた方が事態が早くこじれず収集する場合もあると思います。
以上私見でした。