鳥は羽ばたく時、真っ直ぐ上に行くのではなく一度下に向かうと写真を撮るようになって知った。
飛び降りるみたいに。
少し前に「ある光」と名づけられた写真展を東京まで観に行った。
写真を撮るということは、否が応でも光を強く意識することだと想う。
自分の中の光、絵を作る光。
私はそこで2人の「光」を確かに見た。
「ある光」は地上の夜の松本トナカイ慎一さんとmemo cameraの伊野亘輝さんの2人展で、私は2人の写真が細部を虫眼鏡で観たくなるほど大好きで(勿論もったいないからそんな事はしない)(でも近寄ったり遠ざかったりできることなら触りたいぐらいやっぱり好き)、魂がちゃんとそこにある展示だった。
ちょうど対角線上に2人の撮った東京タワーがあって、それはきっと偶然なのだけど、それがなんだかこの展示を象徴してるみたいに感じた。
松ちゃんがはじめて声をかけてくれたのはこの「僕祈」がここに来る前、はてなに居た頃で。「ある光」の話だった。
16小節の「ある光」、これ以上聴いたらきっと泣いちゃう、という話。
光はいつも刹那だ。
写真はそれを閉じこめるのか、放つのか、ということを良く考える。
そして自分にとって光は何かということも。
世界はいつも何を切り取ったって美しくて、それはある意味とても残酷だ。
世界が美しくないとしたらそれは自分の所為だから。
まざまざと見せつけられる。思い知らされる。
本当は包めたら良いな、と想う。
その光に、まだ私は届かない。