こちら側はこういうことを書くつもりで始めたわけではないのだけど、mixiで書いた日記をそのまま転載します。
川村かおりは、いつも境界線上に立っていた。初めて見た彼女は「ショートカット」というよりも「短髪」で。少し低めの声で飾らない強い歌い方をしていた。少女と少年の境界線上で。
中学から高校にかけて、私はいつも学校にも家にも居場所の無さを感じていた。音楽と本だけが世界を広げ私を自由にしてくれた。暗い部屋で独りTHE BLUE HEARTSを聴いたり、昭和天皇の崩御より尾崎豊の死の方がショックだったあの頃。川村かおりはその居場所の無さ、居心地の悪さを歌う共感と憧れの対象だった。
中学の時テストで50点満点中5教科オール45点以上を取ったら買ってもらえることになっていたCD1枚。私は川村かおりを選んだ。CDジャケットが擦り切れるほど聴いた。深夜のラジオ。私の住んでいた街ではオールナイトニッポンの二部は放送してなくて、トラックの運転手さん向けの演歌ばかりが流れる番組に切り替わる。東京から届く微かな電波を探してラジカセを持って家の中を歩き回った。大好きだった男の子にあげた編集したカセットテープには川村かおりが入っていた。
ロシアと日本のあいのこ。2つの国の境界線上、ハーフではなく自分のことをそう言ったときに私には「愛の子」に聞こえた。
私が大学に入ると同時に川村かおりは音楽の世界から消えた。消滅した。私自身が大学に入って鬱屈するものが減って音をあまり聴かなくなったのもあるけど(嗜好も少し変わってフリッパーズやブランキー、リアルな歌詞の切実さよりも音のかっこよさを求めるようになったってのもある)インターネットなんか無く、情報源が少ない状態では川村かおりは「引退」ではなく「消滅」だった。
次に川村かおりを見た時、彼女は中村達也のリズムにのって歌っていた。名はカオリに変わり、女優もしていた。少女から女に変わりかけていた。年齢的には女でも、もともと持っていたユニセックスさの所為か少女の欠片も残って。
手塚眞監督の「BLACK KISS」は映画としてはクソなんだけど、ビジュアルは完璧で。彼女の危うさ切実さとかっこよさはスクリーンを通してもしっかりと感じられた。彼女はそこに存在していた。
その頃、乳がんと戦っていることをメディアで見かけるようになった。
年上の憧れの女の人は生と死の境界線上に立っていた。
一昨日ぐらいから急に。まるで予感のように彼女の曲を聴いていた。彼女が完全に向こう側へ行ってしまったと知った時には涙が止まらなかった。脊髄反射的に日記を書く気にもなれず、もうこちら側にはいない彼女の声をただずっと聴いていた。それから、してはいけないことを、少し、した。「唄が僕の人生をきっと超えますように」と歌った彼女を想いながら。
相変わらずテレビは見ないので、ちょっと前に放送されたバラエティ番組で彼女の特集があったことを知らなかった。インターネットで探して見ると、なんだか悲しくなった。「私の痛みが誰かの勇気になるなら」と言った彼女だから決して不本意な話ではないのだと思う。でも、一人の女性の生き様をただの感動物語にされている気がした。そしてその頃はまだ生きていたのに、もう死んでいるように扱われている気がした。
闘病でむくんだ顔、伸びない声。
ねえ、その人は少女だったのよ。美しい透きとおるような肌を持つ、力強く歌う少女だったのよ。だから、どうか、あの頃の彼女の曲も流してください。唄をみんなに届けてください。彼女の唄が彼女の人生を超えるように。
今年は人が死にすぎる。
こんな風に遠い「芸能人」の死に悲しんで泣くのなんてバカみたいに見えるかもしれない。でも彼らの死は私にとって「芸能人の死」ではなくて、自分の過去の時間の死なのだ。自分の一部。身に染みたものの死。二度と戻らないという事を否応無しに突きつけられる。
そしてこれからも迎え来る悲しみを考えずにいられない。
川村かおりの2枚目のアルバム「CAMPFIRE」のライナーノーツの最初のページに書いてある言葉。
「時には嘘を真実として許せるような、そんな愛すべき人達へ。そして、いつのまにか燃える炎を失いつつある僕達へ、このアルバムを捧げます。」
言い切れないたくさんのありがとうを空に向けて。
泣いているような花を。祈りに変えて。
Rest in peace.