ひふみよ 「我は時をゆくよ」と

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6月。小沢健二「ひふみよ」ツアー大阪、京都行ってきました。神様を信じる強さを持ってて良かったと本気で思った夜でした。
セットリストや、内容については詳しく詳しく愛をこめて書いてるサイトさんたちがたくさんあって。それを読んだだけで私は大満足なので、今日のここはただの小沢健二好き好き日記。

暗闇の中流れる1曲目「流星ビバップ」。前奏のあの瞬間に、もうただ泣きそうになって。そこからの暗闇の話。ニューヨークの大停電。真っ暗な中での音の共有。隣に好きな人が居たら手を繋いじゃうんだろうな、手を繋ぎたいななんて思いながら。
「真夏の果実をもぎとるように 僕らは何度もキスをした」「そうしていつか全ては優しさの中へ消えてゆくんだね」

昔、LIFEの頃、そんなに小沢健二が好きだったかと言ったら、そうでもなかった気がする。フリッパーズを聴いてて、その後「犬」があって。LIFEがぽーんと売れて、「カローラⅡにのって」なんて歌って王子様なんて呼ばれちゃって。芸大なんてちょっと人より違ってたい人間が集まってた私の周りでは小沢健二よりコーネリアスの方が「お洒落」で。

だけどあの頃。深夜のドライブ、BGMは必ずLIFEだった。2人の時も大勢の時も。溢れる多幸感と、その背景にある「だけどこの瞬間は終わっていっている」という刹那感。
そして小沢健二は歌わなくなった。苛立ちを隠さずに。歌わなくなったことをショックだとも思わなかった。なんだか当然のように思えた。寂しさはその時よりも、何年も後に訪れた。何度も何度も聴くアルバム。友人がくれたシングルを集めたCD。「犬」も「LIFE」も「刹那」もずっとずっと色褪せなかった。それどころかどんどん光を放つように色鮮やかになっていった。ある光。

もう歌わないんじゃないかな、と思ってた。また歌っても、変になっちゃってても嫌だと思った。

ひふみよで、ステージに立った小沢健二は、本当に楽しそうに歌ってた。愉しんでた。真っ直ぐなのに捻ねてて、それも含めてみんな楽しむんだ、って一流のエンターテイナーだった。歌いやめた頃の苛立ちや、喧騒をも全部受け入れて立っていると思った。前半で「天使たちのシーン」をさらっと演ったかと思うと、絶対演奏はないと思っていた「カローラⅡ」をアレンジを新曲みたいに変えて歌ったり。そして「この国の大衆音楽の一部であることを誇りに思います」と言う言葉。
京都での「今夜はブギー・バック」はスチャダラがサプライズゲストで、こんな風景が音が揃って見られるなんて、と声に出して笑っちゃうくらいの状態。にこにこ。踊る踊る。

何度目かの朗読のあと「ある光」の弾き語り。一音一音を聴き逃さないようにするように、心に焼きつけるように静まり返る会場の中で16小節だけ。「この線路を降りたら全ての時間が魔法みたいに見えるか? 今そんなことばかり考えてる なぐさめてしまわずに」「この線路を降りたら虹を架けるような誰かが僕を待つのか? 今そんなことばかり考えてる なぐさめてしまわずに」全部聴きたかった気もするけど、きっと聴いてたら泣いちゃったからこれでいいんだと思う。笑って愉しんで、終わりに向かっていく。

新曲もそうだけど、一人称が「僕」から「我」になっていた。変化。人は変わる。「ラブリー」の「CAN’T YOU SEE THE WAY?IT’S A」を「完璧な絵に似た」と歌い変えたように。最後の曲「愛し愛されて生きるのさ」では「You’ve got to get into the groove」を「我ら時をゆく」と。時をゆく。進んで行く僕たち。でも音は同じ。変わらない部分も持つ。

スチャダラのBOSEが「生きてたらいいこともあるって思ったでしょ」と言う。みんなで笑う。たくさんのそれぞれの生活を人生を持った人たちが、一人の音楽を聴きたくて聴きたくて集まって、聴けて良かったと思ってる夜。そこに居ることができて本当に幸せだった。

幸福の夜。「本当は分かってる 二度と戻らない美しい日にいると」形には残らないけれど、あったかい大きなプレゼントをもらったみたいな夜だった。「いつの日か 長い時間の記憶は消えて 優しさを僕らはただ抱きしめるのか?と」何を忘れても、何を失くしても、ただ生きてて良かったと、心の中に咲く花を受け取る。